私は自身に託された使命の為に、前だけを見て走り続けていた。
 だけど……こうしてゆっくりと歩いてみると、ただ過ぎていくだけだった景色が美しく見える。
 そう、君と二人で歩いていけば。

 初雪の日に

「ほら、これなんて可愛いんじゃないかしら」
 由岐が、純白のベビードレスの入った箱を示しながら、私に話し掛けてくる。手を繋いでいない方の手で、まるでおもちゃをねだる子供の様に指差すその姿は、もうすぐ母親に、そして私の妻となる女性のものとは思えぬ程無邪気だった。
 私は主治医として、由岐と知り合った。事故で重傷を負い、病院に護送され、そこからだ。もっとも、初めの頃は仕事の都合で会う事すらままならなかったが。その上、彼女に会えるのは、決まった回数の検診の時でしかなかっ た。……交際が始まったのは、退院した由岐が、私に会いに来てくれたその時からだった。
 それから私は由岐と何度も会い、その内に同棲を始め、彼女を妊娠させたのが判って、長い独身生活にやっと終止符を打つ事になったのである。
「かのナイチンゲールの様な、愛の天使みたいな女の子が生まれてきて欲しいわ」
「そうだね。女の子だとしたら、さぞかし君に似て美人な事だろう」
 まぁ、と言って由岐は恥ずかしそうに微笑む。照れ隠しをし ようとする彼女を見て、私もつられて笑った。お世辞と受け取られたかもしれない。だが、私は君を誰よりも愛している……その気持ちがそのまま伝われば、どんなに楽になれる事だろう?
 先程私に見せた品物を、レジに持っていく婚約者の後ろ姿を見送って、私はそんな事をぼんやり考えていた。

「どうしたの、さっきからぼんやりなさって」
 店を出てからしている会話に、私が適当に相槌を打っているのを見て、彼女は何か勘付いたのかもしれない。心配そうな声と表情で、由岐が尋ねた。すかさず、何でもない、と返事を返す。それでその会話は終わってしまったが、彼女は納得がいかない様子だった。
 何でもない、と言えば嘘になる。遅い結婚を前に、私は色々な事に感慨しているのかもしれない。それだけ、結婚と言う事は重要な物事なのだろうか。そんな事も知らなかったなんて、天才と謳われている自分が……笑わせる。
 乾いた冷風が吹き、街路樹が悲しそうに、寂しそうに声を上げた。レンガの敷き詰められた歩道から、落ち葉の絨毯が宙を舞う。空を見上げれば、今の私の心情にも似た色が一面に広がっている。改めて、真冬である事を自覚させられる。もうすぐ雪が降るだろう。
「寒くないかい?」
「平気……でも、歩き疲れてしまったわ」
 無理もない。あれ程大きな腹を抱えて、ほとんど一日中、色々な店を歩き回ったのだから。自分が出掛けたいって言い出したのだから、文句は言えないわね、と彼女は取り繕う様に言ったが、私はこれ以上歩いて由岐の体に負担を掛けたくなかったので、もう帰る事にした。向こうにバスの停留所があるから、そこまで歩こう、と促しながら、彼女の分の荷物を持ってやる。
 雪は、乗ったバスが出発して間もない頃に降り始めた。窓際に座った由岐はしばらく外を眺めていたが、やがてうとうと眠り始めてしまった。隣りで苦笑しながら、私は凭れ掛かってくる彼女の、肩を優しく抱いた。長い髪の匂いが鼻をくすぐる。
 安心し切った寝顔を覗き込んだ途端、私はある事を思い出し、脳裏に広げていく。
 いつだったか、入院していた由岐にナイフで刺された時があった。見舞い品の果物でも食べさせてやろうかと、彼女のいる病室の洗面台で林檎を洗っている時に、あらかじめ置いてあったナイフで腕を刺されたのだ。大事には至らなかったが、その時の光景は今でも瞼の裏にくっきりと焼き付いている。流れ出る 鮮血が白衣を、床を、取り落とした林檎を染め上げていく赤い忌々しい光景だった。 忘れようにも、いやに鮮明に残っているので忘れる事が出来ない……目頭を指で揉む。鈍い痛みが、じんと沁みた。
 恐らく、自殺を計っていた由岐は、自分を助けた私を恨んでいたのだろう。義父の死、遺産争いから生まれた疲れと人間不信、そして再び孤児と なってしまった自分の存在価値、それらから解放されようと思えば、自ら命を絶つ以外に方法はなかった。だが、私はそれを止めてしまった。だから由岐は私を殺してから、自分も死のうと新たに思い付いたのだろう。
 私には由岐を憎む事は出来なかった。可哀相に……義父の死によって、彼女の親類達は遺産に目の色を変え、養女であった由岐に偽りの愛情に変わって、孤児に対する冷たきあしらいを与える様になってしまったのだ。
 由岐は私に取り縋って、胸の中で泣きじゃくっていた。私に出来る事なら何でもしてやりたかったが、関係は彼女が退院してしまえば、そこで途絶えてしまう。だから、今こうしていられる間での無責任な立場でしか、してあげられる事はなかった。そこで私はこう言った、亡くなってしまった義父の分も背負って生きなさい。それが私の願いであり、君に託された義父の最後の願いだろうから……と。

 それで彼女を説得出来たかどうかは分からないが、今こうして生きてくれている事には嬉しく思っている。手術を成功させても、亡くなってしまった患者をこれまで何人も見てきたのだから、無事に生き延びてくれたのならば、自分の命のある限り、精一杯生きて欲しいのだ。それが出来ない人間もいる……その上で、生きると言う事は喜びであり、この上ない幸福である事を、誰であろうと私は知っていてもらいたい。
 ……アナウンスがもうすぐ自宅に最寄りの停留所だと言う事を知らせる。由岐は相変わらず眠ったままで、起こすのが可哀相で、一瞬躊躇ってしまった。だが、目的地が近付いているのを見ると、それどころではないとはっきり説き明かされた。急いで停車ボタンを押し、由岐を起こした。










 何時もお世話になってる犬山狐狼様より小説を頂いてしまいました! 本当に有難う御座います^^
 ドクターの妻はさぞかしお綺麗な方なんでしょうね。
 過去ではとても辛い思いを背負っていて、ドクターもそれに危うく巻込まれそうになって……。
 生きる価値と言う事を教わった彼女は、これからもそれを教えてくれた彼と一生の時を過ごして欲しいですね。
 末長くお幸せに暮らして欲しいと、切に願っております。
 狐狼様、有難う御座いました!